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過去数年、日本の不動産市場は依然として活況を呈していました。特に宿泊施設(旅館・民泊)として運用可能な物件は多くの投資家の関心を集めています。東京や大阪の観光客が集中するエリアでは、同じ区分所有の住宅を民泊として運用した場合、長期賃貸の2〜3倍の収益が期待できることは業界の常識になっています。加えて、コロナ禍以降の訪日客の回復と円安による観光需要の追い風もあり、民泊の稼働率が90%を超える好成績を維持する物件も見られました。その結果、民泊・旅館としての申請数は短期間で急増し、「民泊可」と表示された売物件の価格はこの追い風に乗って急騰しました。
一、市場の過熱と矛盾の顕在化
民泊は観光客が住民の居住地区に入り込む形態であるため、生活秩序を重んじる日本の地域コミュニティに明確な摩擦を生んでいます。墨田区は公表資料の中で、住民区域内での宿泊施設の増加が生活環境への懸念を招いていると明言しています。住民からの苦情は、ゴミの投棄、騒音問題、深夜の出入りによる迷惑、運営者側の適時対応が欠ける点に集中しています。今年の板橋区での事例はより衝撃的でした:あるマンションの中国人オーナーが建物全体を民泊に転用する計画を進めるために既存入居者の退去を促す形で家賃を大幅に引き上げ(月7万円から19万円へ)エレベーターを停止し共用部の照明を遮断するといった行為が報じられました。これが報道されると、オーナーは公開謝罪し計画を撤回せざるを得ませんでした。この事件は、高収益を追求する所有者と一般住民との間に生じる対立の典型例となりました。
今年に入って、かつて民泊の運営申請に最も寛容だった東京・墨田区(ほとんど追加制限がなかった)が規制強化に乗り出し、営業時間や運営管理に関する制約を検討し始めました。東京・豊島区は営業日数の上限を180日から84日に削減する案を検討しており(豊島区資料)、冬休み・夏休み期間に限定して運用させることで住民への影響を最小化しようとしています。これらの動きは、民泊がかつてのように自由に拡大できる魅力的な市場ではなくなりつつあることを示しています。

二、「旅館業法」「住宅宿泊事業法」と自治体の裁量
東京や大阪の区役所が民泊問題で次々と対応を取れる背景を理解するには、まず法制度の構造を押さえる必要があります。短期宿泊に関わる日本の主要な法令は「旅館業法」と「住宅宿泊事業法(いわゆる民泊新法)」の二つです。両者は立法目的だけでなく、地方自治体に与えられる権限の範囲にも本質的な違いがあります。この制度設計上の差異こそが、現在「民泊が重点的に締め付けられる」主因です。
旅館業法
起源は1958年に遡り、自治体に対する規制権限は「公衆衛生」と「風俗の維持」の観点から明確に位置づけられています。旅館業法第3条第6項は、許可を与える際に「公衆衛生または風俗の維持のために必要な条件」を付すことを認めており、具体的には清掃・消毒の強化、騒音管理、適切な採光・換気の確保などを求めることができます。さらに第3条第3項では、学校や保育所など敏感な施設の周辺を拡大して規制対象とすることも許されています。これらの規定は旅館業法の下で自治体に与えられた微調整の余地を構成しますが、いずれも技術的な管理に偏っており、市場全体を体系的に再設計するようなものではありません。
住宅宿泊事業法(いわゆる民泊新法)
この法律は2018年、Airbnbに代表される共有経済下での民泊急拡大に対応するために制定され、宿泊サービスの健全化に加えて「生活環境の悪化防止」が明確に立法目的に盛り込まれました。
つまり、公衆衛生や安全だけでなく「地域コミュニティの生活の質」を法の目的に据え、さらに第18条により地方自治体に広範な裁量を与え、必要に応じて条例でさらなる制限を課すことを可能にしています。具体的には、既に一部自治体が次のような対応を始めています:
180日の営業上限をさらに引き下げる(例:豊島区の84日案);
全面的な営業禁止区域を設定する(特定地区や学校等周辺の禁止);
常駐管理者の設置、苦情対応体制の明確化、深夜チェックインの禁止など運営条件の追加。

これらの規定が旅館業法と異なる点は、個別の許可に対する「付帯条件」ではなく、市場全体に適用される「一般的ルール」として作用することです。したがって、住民からの苦情が増えコミュニティの圧力が高まれば、区役所は条例改正により全ての民泊に対して一律の制約を課すことが可能になります。
住宅宿泊事業法は地方自治体による大幅な調整余地を事実上残していると言えます。換言すれば、旅館業法に基づく許認可は衛生部門や消防等の専門部門と事業者の間の技術的管理が中心であるのに対し、民泊新法はコミュニティ、事業者、議会、区役所といった関係者の間での政治的な駆け引きの場になりやすいということです。だからこそ、規制強化の波の中でまず民泊新法が最初に標的にされているのです。
三、社会的背景と今後の方向性
法制度の設計や現場の摩擦に加えて、日本の広範な社会・政治環境も規制強化の追い風になっています。OECDのデータは日本の所得格差が拡大傾向にあり、ジニ係数はOECD平均を上回っていることを示しています。物価や家賃が上昇する中、住民は生活秩序や静穏をより重視するようになり、観光収入に対して慎重な態度を取る傾向が強まっています。
政治情勢の変化もこの傾向を増幅させています。2025年9月、首相の石破茂氏が辞任を表明し、党内の保守勢力や地方議会における保守的な影響力が高まっています。区長や議員にとって、有権者の要望に応え居住環境を守ることは、観光収益の拡大を掲げるよりも政治的に重要な価値を持ちます。このような背景では、民泊に対する規制は今後さらに強化され、区ごとの差別化された政策が常態化すると予想されます。常駐管理義務の拡大や営業日数制限の幅が拡大する可能性が高いでしょう。

結論:投資家が取るべき対応策
投資家の観点から見ると、日本の民泊市場は構造的な変化の只中にあります。数年前までは民泊が即時の高収益をもたらす手段と見なされていましたが、現在は制度上の再定義が進行しており、民泊で高いプレミアムを確保できる「猶予期間」は急速に短くなっています。
この環境下で投資判断のロジックも変える必要があります。第一に、立地選定は従来の地段・交通の優劣だけでなく、区単位の条例や政治的な傾向を出発点として評価すべきです。国の法律は枠組みを示すに過ぎず、実際の上限は区役所の対応にあります。地域コミュニティの影響力が強い地域ほど、将来的に規制が導入される確率が高いと考えるべきです。
第二に、民泊と旅館の投資パスを改めて比較検討する必要があります。民泊は参入障壁が低い一方で政策変化に非常に敏感です。対して、旅館業の許可は初期コストが高いものの、一度許認可を得れば運営の予測可能性や安定性が高まります。資本力のある投資家にとっては、後者の方がリスクを抑えた堅実な選択になり得ます。
また、仲介業者や売主が提示する“想定民泊収益”の数字に惑わされないことが不可欠です。いかなる運用形態であっても、不動産投資は基本に立ち返る必要があります——地価の長期的な価値、人口・産業構造、賃貸・売買の過去データとトレンドなどを慎重に分析することです。包括的なデータに基づく冷静な判断こそが、制度変化の激しい環境で持続可能な投資機会を見出す鍵となります。
参考文献・リンク
墨田区公式文書:
「住宅宿泊事業等の規制のあり方に関する検討」
https://www.city.sumida.lg.jp/kenko_fukushi/eisei/juutaku_syukuhaku/kiseikentou.html豊島区公式発表:
「住宅宿泊事業法の条例改正等を検討しています」
https://www.city.toshima.lg.jp/214/kurashi/ese/kankyoese/minpaku/kaisei.htmlテレビ朝日ニュース:
「家賃2.5倍・未届出民泊・エレベーター停止 東京・板橋のマンションで何が…」
https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000431058.html新宿区条例:
「新宿区住宅宿泊事業の適正な運営に関する条例」
https://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000259057.pdf中央区条例:
「中央区住宅宿泊事業の適正な運営に関する条例」
https://www.city.chuo.lg.jp/kusei/kohokotyo/press/puresure202106/20210604.files/20210604_07.pdfe-Gov 法令データ:
旅館業法 第3条第6項(許可の付条件に関する規定)
https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=323AC0000000138_20240621_507AC0000000073国土交通省・観光庁:
「住宅宿泊事業法(民泊新法)の概要」
https://www.mlit.go.jp/kankocho/minpaku/overview.htmlOECD データベース:
Income Inequality (Gini coefficient)
https://data.oecd.org/inequality/income-inequality.htm
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